朝ごはんには目玉焼き丼食べとけって話

シリアルだとお腹が空く。

朝からご飯にお味噌汁に焼き魚は用意できない。

食べたくない日だってある。でもそのまま食べないでおくと2時間後にものすごくお腹が空いてしまう!食欲もあんまないし、朝から食べられそうな手のこんだものも作れそうにない、そんな時は目玉焼き丼を作ります。

炭水化物+たんぱく質で栄養的にも良さそうだし、そこにネギにノリも乗せればもうバッチリじゃない?

普通に茶碗に白米だといまいち食欲が湧かなくても、おにぎりにしたり丼にすると食べられるようになる。「朝から丼もの~?」と思うかもしれないけど、黄身を半熟にすれば卵かけご飯の感覚で食べられる。

卵かけご飯だと軽すぎるけど、目玉焼きだったら咀嚼回数が増えるので食べた気がする。「食べた」って感覚がなにより大事なのだ。

 

気の抜けない目玉焼き 

3分くらいで完成する目玉焼き丼だけど気が抜けない。

人によって目玉焼きの焼き加減にこだわりがあるからだ。私の場合は固く焼いたヤツに最近はまっているのだが、同居人は「黄身がトロリとするくらいが丁度良い」と言う。朝の忙しい時間にあれやらこれやらに気を取られていると目玉焼きの火を止めるのを忘れてあっという間に黄身が固まってしまう。

それを同居人はやや不満気に食す。

「黄身が硬かろうが柔らかかろうがどっちでもいいじゃん」と思うのですが、人によってこだわりというものがあるのだなーとその度に実感する。

 

反対にトロトロに出来た時なんかはちょっと嬉しい。

「やった」とキッチンで1人ガッツポーズしたい気分だ。同居人も嬉しそうに食べてくれるしその姿を見るのもまた嬉しい。

 

なにかける?目玉焼き丼

うちの場合は「めんつゆ」」一択なのだけど、醤油派が多そうな印象。もとより「めんつゆかけとけば何でもおいしい」という認識なので、これからもめんつゆをかけ続ける。一度塩をかけたけど、主張が強すぎて何だか合わなかった。

最近はわさびにハマっているので、めんつゆにわさびを合わせているのだけど、ピリッとして目が覚める。

 

忙しい朝にちょっとした幸せをくれたりそれを食べる人の反応を見たり、簡単な料理にも詰まっているものがあるのだなぁと思った。

 

「ライトノベルって読んだことない」と思ったけど、書いたことはあった

ラノベの表紙がどうとかこうとか」って話題をはてなトップで最近よく目にします。「んー、そういえばラノベって読んだことないなぁ」と自分の人生を振り返ってみたけど

そうだ、ちゃんと読んだことはないけど書いた過去がありました。

 

今思い起こすと少し、いやかなり恥ずかしい過去なんですがかつて「小説家になろう」というサイトを利用してまして、何かを書きたいという欲望のままペンネームをもち物語を書き始めたわけです。「へー、ここで話題になれば本も出版出来るのか」なんて万が一にもないことを夢見ていました。

 

んで、その時に上位に来ているストーリーをなんとなく読んでみたんですが、あれがまさしく「ラノベ」そのものだったんですね。改めて気づきました。

異世界・生まれ変わり・魔法・チート・美少女

所謂そこにはパターン化されたものがあって、上手くハマるとランキング上位になれる仕組み。

 

「これくらい自分でも書ける」

 

そんな風に思わせるのがラノベの良いところか、悪いところか。

 

でも自分で書いてみるとこれがまた難しい。

パターン化されたもので書こうと思うと個性がだせない。なんとありきたりなことか。風景の描写も省きすぎず、でも鮮明に描かなければ読者は満足しません。

「あなたの文章は風景描写を端折りすぎです」

一度このようなコメントを貰ったこともありました。とにかくクドくなく、かといって省略しすぎてもダメ。自分でも書けそうと思ったラノベをちゃんと書くのはなんと難しいことか。

絵でも文でも「私でもできそう」と感じたことは大抵出来ない。

 

ラノベの表紙がキモイ」って言われてるけど、書籍化されたラノベってのはある程度のレベルをクリアしているのであって「行き過ぎた表紙」でラノベ全般が敬遠されてしまうのはあまりに寂しい。「表紙や中身でエロを連想」させることで売り上げは確かに上がるのかもしれない。けれど、長い目で見たらマイナスになるような気がしてならない。

 

ラノベの定義は曖昧らしいけど「ラノベ=エロ」じゃなくて「=分かりやすい若年層向けの小説」なんだよね。

 

 ▲こういうの好き。

マンガで現実逃避する

やらなくちゃいけないことは山ほどある。

 

自分の部屋の掃除を毎日かけたい。ホコリがたまっている場所をどうにかせねば。同居人のために買い物にいかねば。仕事も進めたい。ブログ書きたい。Twitterしたい。

 

とにかくもっともっと体を手を動かさねば、と思うのだけど最近どうもマンガを読んで現実逃避してしまう。

 

思えば、学生の頃から「テスト前」とか「論文を書く」時なんかは、「さぁ、やろう」と思い立ったはいいがいつのまにかマンガを読み始めてしまう。しかもベットでごろりと寝転がって読むからタチが悪い。普段読まないマンガの1巻から読み始めたり、「お前やる気あんのか」と自分で自分に喝を入れたくなる。

 

それは大人になった今でも変わらず、相変わらずマンガを読んで現実逃避して「やりたかったことの半分しか出来なかった」なんてことがままある。

それでも生活していけてるのだから、良しとするべきかもっと自分のお尻を叩くべきか。

 

ちなみに今、読んでいるマンガは「ちびまる子ちゃん1巻」と「ドラえもん1巻」。

さくらももこの初期作の細かい書きこみやドラえもんの頭を空っぽにして読める心地よさを感じながら時おりPCをいじる。子どもの頃に読んだマンガに相変わらず笑ったり、考えさせられたりしているなんて。

 

さぁマンガで充電したら少し作業を進めようか。

 

 

 

ある女性ブロガーの報告を読んで泣いてしまった

名前は伏せておきますが、とある女性ブロガーの報告を呼んで泣いてしまいました。

 

その報告とは「ずっと闘病していた旦那さんが死んでしまった」というものだったのだけれど、腹の底から生み出す文章と旦那さんへの溢れんばかりの愛情・医療に対する不満や疑問、そこで展開される人間模様。あらいざらいに綴られていてまさに心が震えた(実際に私も学生時代よく入院し、祖父母を長期の入院の末なくしているので看護師や医師に対する歯がゆさもよく理解できた)

 

夜中の2時にPCの前で泣いている私は自分でも「何やってんだ」とも思うが、「ブログによって泣かせられる」そんな日が来るとは思いもしませんでした。

※女性ブロガーの方は泣かせようとかそんなことは考えていなくて、ただただ自分の日々を気持ちを綴っていたのだと思うし、こうやって話題に出されたり「泣いた」と言われることに関してひょっとすると不快に思うかもしれない。

 

同時に30代になって泣くことなんて皆無に等しいし、そんな機会もほどほどないのだけれどブログというツールで文章で、ここまで人の心を動かせるものかと関心したのも事実。身近な人間との別れをどう迎えるべきか、病気になったらどのように助けるべきか、医療従事者との向き合い方、そして自分の最期の迎え方を考えざるを得なかった。

 

ブログは全くオワコンじゃない

ざーっとネットの波を漂ってると「ブログももう終わってる」とか「はてなオワコン」といった話題を目にするのですが「全然終わってないじゃん」と思いました。

事業が停滞しているとかそういう意味なのかは分からないですが、こんなブログを書く人がいるなら全然オワコンじゃない。

人の気持ちを動かせるブログを書く人がいる限り、ブログに未来はあるんじゃないかなぁと思いました。現にブログって不思議なもので、以前これまたある男性ブロガーが事件に巻き込まれた末、亡くなった事件についてもその男性とは全く面識もないし時たまブログ(というかサイト)を読みに行ってただけなのに、変な脱力感というか哀しさがありました。

 

ブログを読むってことは大げさにいえば、その人の人生を追体験しているに等しいと思います(現実には全く関わってないけど)

プライベートなことが綴られている、ある事に対する思いが綴られている、その人ならではの文体。それに読み手が触れる。

 

考えれば考えるほどブログって不思議な世界だ。

パワハラだらけの社会

体操業界がなにやらずっとざわついていて、パワハラだのパワハラの認識がなかっただのとやいのやいのやっていますが、一般社会もパワハラだらけだよなぁと思いました。

私は一つの仕事をずっと……という働き方が出来なかったので、これまでいくつかの仕事と職場を渡り歩いてきましたが、パワハラだらけで逆にパワハラがない職場って幻じゃないの?なんて思ってました。

 

体操のエライ人の話し方が高圧的だとかなんとかということですが、あんな話ぶりをされたことは山ほどあるし、通っていた大学でも就職担当のおっさんがあんな感じの話し方で、自分の気にいらないことをこっちがすると怒鳴りつけるし、チェックしてもらうための履歴書が事情があって提出が遅れた時は大勢の前で怒鳴りつけられ、その時は恥ずかしさとショックで死にたくなりました。

 

あと、女だらけの仕事場でも酷いもんで、お局様的な人にハマらなかったので徹底的に嫌がらせされました。仕事が出来ていないといちいち嫌味を言われ、チェックされ、挙句の果てには必要な書類を出しただけで金髪お局に舌打ちされて、書類を投げるように机に放られました。未だにその会社名と実名を憶えているので公開したいくらいです。

私も有名だったらメディアに「パワハラされた!」ってめちゃくちゃ訴えたい。

でも、世の中にはそんなパワハラが蔓延してて泣き寝入りしている人がたくさんいるんだろうと思います。

 

そんなパワハラから身を守るためには、証拠として録音したりといきすぎなくらいの準備が必要になってくるのかなと思いました。だって、いくら私がパワハラを訴えたくても全く証拠がない。

だからパワハラをやってる側だ!と訴えられた人たちが録音していたり、訴えた側の選手が言動をノートに記してたり、第三者の人がコーチとの練習をビデオに撮影したり、それぞれがそれぞれの形で証拠を残しているので賢いなと思いました。

ただ、それだけです。

「ももこの話」さくらももこ

さくらももこが亡くなってからというもの、さくらももこ関連の本を本棚の奥から引っ張り出して読みまくっている。

 

彼女のエッセイの中で評価が高いのが「さるのこしかけ」「もものかんづめ」「たいのおかしら」あたりだと思うが、この「ももこの話」が私は密かに好きなのだ。タイトル通りももこの話がいっぱいで、その中心はいつものように当然のように幼少期のさくらももこのことが綴られている。

(巻末でさくらももこへのインタビューがあったけど、今読むと少し物悲しい)

 

ももこの話で好きなのがトップバッターの「食欲のない子供」

さくらももこが幼少期に少食だったのは有名な話だが、給食が多すぎる!といった問題をコミカルに家での出来事も交えながら描いている。その絡めかたが絶妙で給食から母すみれの小言と悲哀、更にオチにアルジェリアとナイジェリアをぶっこんでくるさくらももこの上手さに思わず唸ってしまった。

あるあるなネタから日常の中にある笑いと悲哀、そしてしっかりオチもつける。これぞさくらももこではないか。

 

同書には「父ヒロシにまる子がお風呂場で歌を教える」お馴染のネタもある。

アニメや漫画でも幾度も見たような話だけど、やっぱり面白い。

ヒロシと風呂ネタは鉄板だと思う。教えた通りに歌えない適当なヒロシに、上から目線で熱心に教えるまる子、そして最後は近所のおばさんからの「お風呂の歌が聞こえている」という報告に愕然とするまる子。「お風呂の歌が聞こえている」と言っちゃうおばさんはややいけずな気がするが、その時のさくらももこの絶望を考えるとまたじわじわと笑えてくる。

 

他にも「おとうさんのタバコ・かきぞめの宿題・暑さのこと」など、さくらももこことまる子の小学生時代のエピソードが盛り沢山で楽しい。

 

※ちなみに巻末のさくらももこへのインタビューでは「50歳、60歳の自分ってどんな風?」という質問があって、「想像できないけど80歳になってもくだらないことをしてるんじゃないか」って答えてて、少しセンチメンタルな気分になってしまった。

 

ももこの話 (集英社文庫)

ももこの話 (集英社文庫)

 

「みんな何のために生きてるの」の答え

anond.hatelabo.jp

増田で「みんな何のために生きてる?」っていうヤツがあって、目についたのでついクリックして内容をじっくり読んでしまった。

「なんのために生きてるのか?」ってことは、誰でも一度は考えることじゃないかなーと思いつつ、投稿者は「みんな」なんのために生きてるかを知りたがってる。これも過去の私と同じで「みんな」が何を励みに毎日の生活を送ってるのか知りたいと思う気持ち、よく分かる。私も過去にその答えを知りたくてネット検索で時間を潰したことがある。

 

でも出てくる答えは「毎日おいしいものを食べるため」「家族のため」「好きな音楽を聴くため」とかで、これといってピンとくるものではなかった。

 

なぜそれを知りたいのかっていったら私じゃない「みんな」は毎日なんだかんだでキラキラと毎日楽しく生活してるように見えるからで、その人なりの問題は抱えているのだろうけど、それでも死を考えずに何だかんだ毎日に折り合いをつけているように見える。なんで、みんな「死」を選ばず「生」を選び続けているんだろうと。

 

んで、私なりに見つけた「何のために生きてるか」の答えなんだけど、「生かされてるから生きている」それしか思い浮かばない。辛さを乗り越えた先に何があるかっていうと何にもないし、死んだらあっという間に忘れられちゃうけど、死ぬような天災や事故・病気にもならず生かされている、ただそれだけだと思う。

 

私は30代なんだけど、この歳になると病気で死んだとか自殺したって知り合いが少し増えてきた。病気で死んだと聞くと「この若さで……」っていう気持ちになるし、自殺したって聞くと「辛かったんだな」っていう感想よりも、不謹慎だけどそれを実行するに至った決意の固さとか死への行動力に驚く。

んで、彼らとの違いって何かなと考えるとやっぱり現在の状況に「生かされている」って結論に至る。死へ繋がる病気になったわけでもないし、ちょくちょく辛いことはあるけど死ぬほどつらいことも今のところない。

よく私は人間って花のようなものだなーと思うんですが、道端に咲いてる花と一緒で人間に踏まれたり、風で折れちゃったらそこで終わり。終わらなかった花はただ咲き続けるのみだって。結局、意味なんてないに等しいんですよ。

 

どうしても「生」の実感がほしければ

「みんな何のために生きてるんだろう」って感じる時って、生の実感を渇望している時だとも思うんですよ。だって、小学校の時とかそんなこと思わないでしょ。ものを知らないってことも大きいのかもしれないけど、今思いだしても放課後遊んで帰る時の夕方の空気が好きで、家に帰るといいご飯の匂いがして。ってキラキラしたものしかない。あと未来への期待とか「生」を実感しまくりだった。

大人になるとそれが薄れちゃうんですよね。未来ももうある程度見えちゃってる、子どもの時のような感受性もない。欲しかったものを買っても、おいしいものを食べても楽しいのはその場限りで長く続かないし。

 

じゃあ、唯一「生きてる」って実感して心から幸せになるにはどうしたらいいのかっていうと「他人に与える」ってことしかないと思うんですよ。ギブ&テイクじゃなくて、ギブ&ギブ。ボランティアとかもそうだし、創作活動で人を楽しませたり、ちゃんとした知っている情報を教えたりでも良いです。

 

あの、2歳児を救出した尾畠さんっていたじゃないですか。78歳なのに目がキラッキラ。「今どき子どもでもあんなにキラキラした目の子いないよ」ってなキラキラ感。あの人ってたぶん与え続ける人生なんですよね。

困った人がいたら助ける、不具合がある場所なら誰に頼まれてもないけど自ら直す(山登りして腐ったベンチ直してた)

そんな尾畠さんに「生きる目的は?」って聞いたら「人を助けるため」「恩返しのため」って答えるんじゃないかなと思います。「尾畠春夫の人生に悔いなし」ってテレビで言ってたけどカッコよすぎ。そんな人生最高。なかなか出来ることではないけど、人生に迷ったら尾畠さんをマネしてみると案外幸せになれるかもしれない。

 

「何のために生きてるの」じゃなくて「人生に悔いなし」って生きていきたい。